「大根の月」
向田邦子の『思い出トランプ』を読んでいる。気になっていたのは収録されている「大根の月」。向田ドラマの中でも忘れがたいストーリーだったので、本を読んでみたいと思った。
主人公は祖母仕込で三日に一度は包丁を砥ぐ主婦である。姑にやんわりと嫌味を言われても、その習慣は変わらない。切れ味の良い包丁で、大根を薄く切るのがうまくいくと、いつも母のことを小さな声で馬鹿にしていた祖母を見返したような気になるのである。結婚前、一番しあわせな結婚指輪を買いに出かけた折のこと、夫と昼の月を見上げて言葉を交わしたことがあった。昼の月は、絵空事のような幸福な結婚を思い描いていたその頃を、思い出させるものである。
あるとき6歳になる長男が、まな板でハムを切っていた主人公のそばでふざけていて手を出した。あっと思うまもなく、息子の右の人差し指の先が2センチ、切り落とされてしまった。息子の指は元に戻らなかった。姑に嫌味を言われ、かばってもくれない夫。そのショックで主人公は流産してしまう。その入院中に息子はいつのまにか姑になつき、主人公は家を出てしまう。夫の存在感のなさといったら。男とはこんなに頼りにならないものか。
指という文字を見るたびに、家を出て子どもをあきらめた主人公は胸が騒ぐ。ぴかぴかの一年生を見ても心がうずく。夫は離婚を前提とした別居を半年続けたところで、主人公を迎えに来る。彼女は「戻ってくれ」という言葉に揺れる心のまま、空を見上げて昼の月が出ていたら戻る、出ていなかったら戻らないと思うが、怖くて目を上げ月を探すことができない。
向田邦子は、愛する人はいたものの結婚した経験の無い人だ。自分の育った生家の様子を思い浮かべながら、こういった短編や小説を書いていたのだと思うが、この短いドラマの中に語られる人間たちの感情があまりにもリアルで、心にずしんと響くものがあるのはさすがである。この人が今もこの世の人であったなら、一体どんな活躍をしただろう。あまりにも早い死であったことを、世間の人々と同じく、私も惜しむ気持ちでいっぱいである。
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