GLORY~記憶の旅~
若い時人生に大きく躓いて、生きているのがやっとなときがあった。仕事を終えて部屋に帰り、一人で食事をしてテレビを見て、ユーミンの音楽を聴きながら暗い部屋で一人で寝た。ああこのまま明日の朝、目が覚めなければいいのにと、毎晩思った。けれども気づけば朝が来て、会社に出かけて仕事をして、そしてわずかな食料を買ってアパートに帰る日々。仕事のない日曜日には教会に通っていた。神の家族である教会員の親切は有難く、感謝はいっぱいしていたし、普段の独り暮らしで自由を身につけ、羽目をはずしても誰にも叱られない生活だった。だけど私は辛かった。虚しかった。
そんなある日の通勤途中、山手線の窓から街のビル群をぼんやり見ている時、私は”GLORY”と書かれた看板を見つけた。私はうつろな意識の中で、GLORYって栄光ってことだよ…栄光か…と考えた。私はキリスト者であったから、神の栄光を現す人生という生き方を概念として知っていた。しかし絶望の淵に立っていた私は、とてもそんな風に自分が生きているとは思えなかった。「栄光」という言葉の意味は知っていても、クリスチャンとして理解はしていても、絶望と虚無しかない生活の中でそれを自分の人生に見つけるなんて無理だった。いつか自分の人生が終わるとき、神の栄光を現すことができたと思えるんだろうか、という疑問しか湧かなかった。
その少し前、一番消えてしまいたかった5月の土曜日に、その頃まだ私は実家に住んでいたのだが、今日のことを忘れないように何かしようと思った。買ったばかりの鉛筆とスケッチブックを持って庭に出た私は、大好きな木の下の芝生の上に腰を下ろした。そして空を見上げてみた。空は何事もないようにそこにあった。視線を下ろせば私の周りには、鮮やかな新緑とサツキがあったのに、私の目には全てが虚しく色を失って見えた。絵を描くことはできなかった。仕方なく私は自分の左手を紙の上に置いて、鉛筆でなぞって手形を残した。絵を描けないくらい悲しい日があったことを、忘れないようにしようと思いながら。
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