不条理について
私が月に一回通っている心理学の講座で知り合ったご婦人に、今月も授業でお目にかかった際「お誕生日プレゼントよ。」と渡されたのが 「なぜこんなことが『私』に?」 という文章だった。書いたのは、カウンセリングの大家であられる、賀来周一という先生。愛にあふれる元牧師は、私の父と同じ年のお生まれ。私はその文章に大いに感銘を受けた。そして、昨日の朝も再びこの文章に目を通し、色々自分の人生を思い返していた。そして昨日は日曜だったので、私は教会の礼拝のあと午後も聖書研究会に出席したのだが、また同じ問いについて考えることとなった。
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賀来先生の文章によると、不条理な出来事に出会った時人が抱く疑問は、3つに分けられるそうである。
「なぜ私なのか。」
「なぜ今なのか。」
「なぜほかの人ではないのか。」
その答えを当事者は知ることはできない、と文章は続く。
クリスチャンである場合、その問いは十字架の上で苦しみながらイエス・キリストが臨終を迎える際、天の神にむかって叫んだ言葉と重なる。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」~「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
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私もこれまでの人生で何度か、不条理な出来事に身を置いて、この答えのない問いをしたことがある。自分の場合も答えは見つけられないまま今日にいたる。そんな私がその文章を読み、また昨日の聖書についての語らいのなかで感じたことは、私が苦しんでいる時にいつもそばに、共に苦しみを受け止めてくれた人がいたことで、私はその苦しみを耐えることができたということである。私は信仰を持っているので、苦境を支えてくれた人々は神様が使わして下さった助け手だったと感謝している。
しかしたとえ信仰をもたない人の場合であっても、私は同じことなのではないかと思いながら、身の周りの人たちのことを考えた。私は、不条理に身を置いて疲れている人と共にいてくれる味方は、必ずいると信じている。目に見える形で、声を聞かせてくれる存在として、または声を聞いてくれる存在として、必ず誰かが不条理に苦しむ者と共にいる。そのことに気づくことが、その人の逆境を耐える力となると思う。そして逆境に疲れたその人を、慰め休ませてくれる役目も、きっとその味方になってくれる人が引き受けてくださるに違いないとも信じたい。
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