3月15日
今日は3月15日。去年の今頃は、巨大地震による津波の悲劇が、繰り返しテレビで流れていてショックから抜け出せていなかったと思う。私は福島第一原発がどのぐらい深刻な状態かをわからないまま、計画停電だとかガソリンだとか食糧の品薄に焦りおたおたと日々を過ごしていた。幾度か爆発が起こっていたのに、「直ちには影響はない」と枝野さんが言ってるし、と危険性に気づかなかった私。悔やんでも悔やみきれないけれど、昨年の今日既に、西へ外国へと避難していた人たちもいたのだ。
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昨年の今日、私は勤務日だった。ちょうど11日も勤務で、仕事中あの大揺れを体験した。免震構造のビルの中、廊下で壁に手をついて、なんとか倒れないように地震をやり過ごした。地震と同時に停電になったから仕事ができず、早退し自転車に乗って家や家族の心配をしながら私は帰宅した。停電のため信号機が消えた交差点で、警察官が交通整理していた。コンビニは閉店が多く、ひとつだけあいていた店で、パンや飲み物やインスタントラーメンを買って帰ったのだった。恐ろしかった。~家に帰ると停電を免れていたので、テレビのニュースで東北の惨状を知った。地震発生時地下鉄にいた息子は、その晩10時間かかって帰宅。私たち家族は混乱した数日間を過ごした。私の場合、その次の勤務日が15日だったので、その日のことはよく覚えている。私は普通に自転車で職場に行った。仕事をして、昼休みには「フランス大使館は、京都まで逃げろって日本のフランス人に言ったんだって。」と大袈裟よね!という風に職場の人が話していたのを覚えている。
あれは大袈裟ではなかったのだ。あの日福島や首都圏にいた人とそうでない人とでは、被曝したかどうかえらい違いであるのが、今頃わかってきた。私はすっかり「枝野がんばれ。」とか「ぽぽぽぽ~ん」というACのCMに洗脳されてたのだった。あの日、娘は小学校に行った。私たちは外を、無防備に出歩いたのだ。花粉症でない私たち家族は、あの日マスクはしていなかったと思う。
おまけに今度は連休中の21日。計画停電情報に疲れ、食糧の買いだしのため、雨の中わざわざ息子を同伴して、傘を差して買い物に出かけた愚かな私。大事な息子を、あの雨の中歩かせてしまった。危険を知らなかったとはいえ、後悔してももう遅いのだがまたもや無用な被曝をさせてしまった。なんで私は、西に何も当てがないとはいえ、危機感を感じながらもどういった方策をとればいいかわからず、この場所で政府などの言うことに振り回されて普通に暮らしてしまったのだろう。
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1年がたち、私は今ならガイガーカウンターの値でどのぐらいが危険か見当もつくが、当時はどういう値を出されてもピンとこなかった。あの日、東京の線量は、想像を超える恐ろしい値だったようだ。放射能ブルームが通り雨が降った地域は、福島だけではなかったのだ。せめて警告を出してもらえていれば、家の隙間という隙間を目張りして、家族で一部屋にこもってその雲をやり過ごせたろうにと思うと、本当に悔しい。一般市民が避難もせず、この場所で無防備に過ごしてしまった責任は政府にあるが、もう済んでしまったことなのだ。一年たってわかったこと。それは、これからの時代、誰かを当てにしていては駄目なのだということ。自分のことは、自分で守らねばならないのだ。
私はこれからも、特別なことがなくてもこのブログなどで記録をつけて、毎日暮らしていこうと思う。突然の思わぬ明日がやってくることを、いつも頭の片隅に覚えておこう。それから、大事な人たちと過ごすありふれた時こそが、本当に大事なんだと感謝しながら生きよう。そう心掛けることが、あの地震やそれに伴う災害で亡くなった方々の無念に報いる生き方なのではないかと、一年たって思う。意味のないことはないはずだ。悲しみを乗り越えて、これからをどう生きるか。若い未来ある若者たちにどんな日本を手渡すか?それはこんな小さな意識の変化の積み重ねで、少しは変わると信じたい。
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