展覧会で思ったこと
レオナール・フジタとパリ(←ここをクリック)
上記の展覧会の絵を、今日は仕事の合間に観賞した。外が雷雨で大変な天気でも、美術館の中はとても静かだった。描かれた絵の乳白色の肌の色が有名な藤田嗣治だが、今回は渡仏して100年を記念しての展覧会である。渡仏して100年というが、生まれたのは1886年ということだ。
展示の最初でそのことを目にした私は、自分の祖母が生まれた年を計算してみた。すると祖母が藤田とほぼ同年に生まれた事が分かった。
実は私の祖母は画家だった。祖母は大阪の写真館の娘であった。嫁にいかず絵を描くことが許されていたが、20代の終わりに知り合った祖父に求愛され、思案の末家庭に入ったらしい。仲間は絵をやめることを惜しみ、結婚はするなと言ってくれたらしいが、祖母は結局結婚し東京にやって来た。新しい土地で1人の母親として4人の子を産み育て、生涯を終えた祖母。私が生まれる前に亡くなったので、面影をたどるには一枚の写真をたよりにするしかないのが残念だ。
私は、関西で後に名を挙げたの画家たちと共に絵を学んだ祖母は、藤田のフランスでの活躍を知っていただろうと想像する。末っ子の母のことを連れて東京の美術館巡りをするのが常だったという祖母は、当時どんな思いで主婦として戦争の時代とその後を生きたのだろう。それより前、関東大震災に見舞われた東京で、赤ん坊をおぶって混乱の中を逃げ惑ったという若い母だった祖母。絵をやめないで関西にいれば、味わわずに済んだ苦労だったに違いない。困難な時代に子育てをして、夫の介護もした。立派な息子を二人も、天に送った。辛いことが多い人生のなかで、一番可愛がっていた私の母を嫁に出す前に、デッサンした絵を幼い頃見たことがある。寂しい思いがこもった絵だったのだろうと、今になったら分かるのである。
時代や自分のおかれた状況に応じて、新しい場所へ飛び出していった藤田嗣治と私の祖母。旧約聖書の遥か昔でなくても、そういった人生の決断をして生きた先人を考える機会と巡りあえて、私はよかったと思う。決断の結果新たな困難に打ちのめされることがあっても、ぶれずに生きた人たち。決断を肯定的にとらえられない日々もあったろうが、一人は数々の価値を認められた絵を後世に残し、一人は美術センス抜群の丈夫な女の子を育て上げたのだった。
【追記】母に尋ねたところ、フジタの絵の印象が強いらしい。どんな絵だったの?と聞いたら、戦争中に軍のためにフジタが描いた絵を非常に沢山観たそうだ。そのことで思うところも色々あるらしい。祖母のことは母から沢山取材するべきだと私には分かった。
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