お歳暮
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私が洗濯物を干す場合、私はやっと気に入った順番ができてきた。洗いあがった洗濯物のはいった籠の中から、まず細長いものばかりを選び肩に全てかける。ズボンやタオル類、パジャマなどがそれにあたる。肩にかけるのは姑だった人から習ったやり方だ。私はいい知恵を教えてもらえたと、今ではとても感謝している。こうすると洗濯バサミに干すたびに屈んで次を取り上げなくてもいいから楽なのだ。~次は洗濯用の網から出したシャツをハンガーにかける。お次は、ランニング状の衣服の肩の部分を全て腕に通して、そのまま一気に竿に通す。するとあとは、小物だけが残るので簡単だ。
また、食器洗いの場合にも私には順序がある。皿洗いのバイトをしていた人から昔教えてもらった順番を、私は今でも守っている。~洗い場がいっぱいの時は、まず大きいものから。例えば鍋や大きな皿などから片付けて、洗うスペースを作るのがポイントだ。それから小さいものに取り掛かる。同じ形のものを揃えて洗いかごに立ててゆくと、あとからくずれにくいし水が落ちる。そんな風にすると、あっという間に洗い上がる。
家事の場合、こういう手順に慣れると大変スムーズにいくのだが、人生の問題の場合は、なかなか大きいものから順に手がけるのは難しいように思う。逆に大きいことに取り掛かれないときに、間近にある日常の細かいことを丁寧にこなしていくうち、後回しにしていた問題が整理されていく場合もあるようだ。
人生の場合は、同時並行もできる。大きな問題に取り掛かりつつ、日常の細かな家事をこなすような難しさ。要は、その問題が大きなことか小さなことか、見極めながら工夫して取り組むのが、振り回されないコツのようである。
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今夜は雨も上がり、丸い月が冬の星座と一緒に天空に輝いている。私は乾ききらない洗濯物をコインランドリーで乾かそうと、夜も更けてから外に出た。そして先日の流星群の夜、嫌なことや悲しいこと、不安なことが星と一緒に流れて消えたら楽になれると思ったら、気持ちが明るくなったのを思い出した。
そういえば今日職場で、江戸時代に描かれた滝の絵を見つけて思ったのだった。滝のように勢いよく水が落ちるイメージは、実に気持ちがよい。滞っているものが流れ落ちていく瞬間は、やがて必ずやってくる。新しく生まれては消え生まれては消え、めぐりめぐっていく自然。
そう、人間だって自然の一部。そう思えば人生は、所詮ちっぽけなあっという間の出来事である。どう生きて死のうが、あまり大きな違いない。ただそれが受け継がれ繋がって、次の世代や社会を作っていくイメージを、持つか持たないか。それは人によって様々だ。自分勝手に死んでしまってハイ終りではつまらない。命の問題に気づかぬまま死んでは、折角の人生がもったいない。そんな風にも思う。
あきらめないで大切に、あっという間だけど楽しんで、キラキラ光って暮らしていたい。まもなくクリスマスの寒い夜。洗濯物が乾く間に、思いをめぐらせたランドリー。
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熊本城二の丸にある、熊本県立美術館の本館。そこで今月23日まで開催中の、第Ⅲ期コレクション展(←ここをクリック)。フランスの近代絵画を展示している部屋では、その他に芸術の都ウィーンで学び、ヨーロッパの古典技法を駆使して現代を描いた熊本の3人の画家の、優れた作品が紹介されている。
私が好きなのは、その中でも谷脇敬二のもの。特に考古学が大好きな私は、人類が使った最古の道具であろう石器の絵が特に印象的なのだが、その右の「SEALED DINNER」は、作家の放射能に対する危機感が表れた作品であると最近知った。 描かれたリンゴ達は放射能に汚染されているのだという。それを食べてはいけない。鉛によって大きく×をされた食卓。そこに書かれた言葉。
HE MUST NOT EAT THIS APPLE
THE DINNER [1980 F・H・R・B]HAS BEAN SEALED ETERNALY
SHE MUST NOT EAT THIS APPLE
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12月は忙しい。誕生日やクリスマスがあるのでワクワクするが、何しろ用事が多い。師走とはよくいったものである。
今週は職場の忘年会があった。お通しの天婦羅の中身は、山芋をシソで巻いたもので美味しかったが、乾杯のビールで酔った隣の席の人が、これは牡蠣だと言い張るので面白かった。忘年会。嗚呼忘年会、忘年会。
その日は飲み放題の店だったので、大いに飲んで騒いで面白かったが、翌朝職場の方々は疲れていた。私も疲れたので、宴会は今年はこれで終わりにしようと思ったが、何とその後あと2件話が舞い込んだ。経費節減のため個人宅で!という方では、私のところが会場になるようだけど、できれば勘弁してほしい。自己アピールしたい人こそ自宅を開放していただきたいな。冬休みぐらい、私はゆっくりお客さんになりたい。
同じ団地の中で、うちのように炬燵しかない人、いまだに何も暖房器具を出していない人、火鉢だけが家にある人。結局どのうちが会場になるのやら。いずれにしても、身体が温まるお酒を用意しなくてはなるまい。
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間もなく、東日本大震災から2年9ヶ月。あれから私の状況は大きく変わった。悩んだ末に、関東から九州に移住したのが昨年春。家族は離ればなれになった。それまで我が家の一大事だったことがそうでなくなり、新しく問題が発生し、それまでの悩みごとの重要度が変わった。
私のことを、同居している子どもは「引っ越してから随分変わった」という。以前よりのびのびやりたいことをやっているように感じるそうだ。確かにふるさとを離れ、心が解放された部分はある。気持ちの踏ん切りがついたことが、いくつもある。そして環境が変わったことで、内面的に気付かされることがいくつかあった。
新しい土地で出会う人たちには、昔からここに住んでいる人もいれば、他県からの移住者もいる。東日本大震災をきっかけに移り住んだ母子が、実に多い。私のように身寄りもないのにやって来て、小さなこどもを
抱えて一生懸命なお母さんたち。目に見える被害が大きい地域から来た人は、支援はあっても困難があるし、自主避難した私のようなケースは理解されにくいしんどさを抱え、なんの支援もなく生きている。被災者をめぐる復興庁の基本方針は、自主避難者には冷たい。支援法の理念が活かされていない。そういうのを見るにつけ、この国は被災者を、都合の良いように分断し対立させ利用しようとしていると思う。本当は今こそ歴史をひもとき、水俣や広島・長崎・沖縄を学び直すべき時だ。あるいは、明治維新から第二次世界大戦、戦後の復興とアメリカと日本の関係を。過去を見つめ現在の状況を分析すれば、見えてくることはたくさんある。そうしなければ、権力側のいいようにされるだけだと思うのだ。自分の命はどこから来てどこへ行くのか。よくよく考えて、自分の大事なものの在り方を人任せにしては決していけないと思う。
今日もまた、目の前には日々解決しなければならない問題がある。ご飯をつくってこどもに食べさせる。身支度をして仕事に行く。身の回りで困っている人がいれば話を聞く。なるべく丁寧に、そういう生活を大事にする。それとは別の難問に取り組むことも忘れない。時間をかけて問題をクリアーすると、やがてまた次のことが現れる。違う風景が見えてくる。自分は次に進んだのだなぁと気づく。この道のりは険しすぎることもないが、エネルギーが要る。苦しくても納得しながら頂上を目指す山登りに、私のしていることは似ているとしみじみ思う2013年わりである。
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