子どもが誕生日を迎えたり、しかし学校の試験があったりで、なかなかブログ更新ができなかった。この間は料理教室で出会った人に、不思議なことに自然治癒力を呼び覚ましてもらって、痛めた首を治したりした。いろいろあった10日間。おかげさまで私は、この地で多くの人と関わりながら暮らしている。いいこともあれば、良くないこともある。この頃の悩みは、引っ越してきた息子と、よくケンカをすることだ。たまにはゆっくりお茶を飲みながら話もするけれど。
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心にあたためていてこの頃書きたいなと思っているのは、人々の無関心についてである。それで思い起こすのは、この映画。
2006年にホテルルワンダを見た時の記事(←ここをクリック) を読んでみた。あの映画の終わりで、アフリカの惨劇を夜のニュースで見ている外国の食堂の場面で人々は…。
残念だけど、"怖いね"と言ってディナーを続けるだろう。
ジャーナリストのこの言葉は忘れられない。生きるか死ぬか、今生き残るには、今この人を助けるにはどうしたらよいかの判断を迫られている現実があった、ある。それを知る、知った。それでも人間とは、わが身が悲劇にさらされてみるまで、その立場の人の気持ちが分からないしせっぱ詰らないものなのだ。仕方のないことかもしれないが、私は映画館でもそれを悲しいことだと思った。~しかし311後、この日本でも同じようなことが起こっていると思うのだ。関東でも福島は200キロも!離れた場所のこと。ここ九州では東日本とは、大抵の場合テレビの向こうという感覚であるようだ。
では、ツィッタ―のこの人のつぶやきをぜひ読んでほしい。福島は日本か(←ここをクリック)。普段からツィッターなんてデマが多いようだから読まない信じない、と思っている人は、こんなのを目にすることはないだろう。でも福島でつらいことを書いている人が味わっていることは現実だ(と思う)。私はこれを読むと、胸がつぶれそうになる。私は関東にいたときに子どもに食事を用意しながら、同じような思いにとらわれていた。蛇口をひねって出てくる水が、調理に使うには安全でないと思っていたからである。怖かった。知れば知るほど、現実が恐ろしかった。世間では放射能を怖がりすぎる人を馬鹿にする風潮があるし、鼻血騒動で漫画がよしあしされる昨今、風評という言葉が独り歩きしているようだけど、実際被害が出ているのだから、いのちを守る母親が恐怖を感じるのは当たり前だ。九州にやってきた私だって、今なお警戒を怠らない。いくら測ったって、放射能はなくならない。
この人にこんな思いをさせて、この国はおかしいと私は思う。
こんな苦しい暴力的な環境を許していいのか。見えない暴力にさらされて、身も心も傷ついているのに、こうやって情報発信しているのに、何がオリンピックだ。何がワールドカップだ。
大事なことは隠され、人の命は金より軽んじられる。大切にされ続けてきた平和憲法も崖っぷち。自由に表現することも知ることも、制限される時代が目の前である。それでも立ち上がらない、危機感のない国民の多くは、今日も垂れ流されるテレビからの情報を鵜呑みにしているのだろう。日本がこんな国になろうとは、数年前まで思いもよらなかった。救いはどこにあるのか?弱い立場の人は、虐げられたまま死ぬしかないのだろうか?
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